「あら、おはよう」
不法侵入を見つけたときから数えて七時間ほど、目を覚ましたようなので声を掛けた。
知性の欠片も浮かんでいない瞳がのろのろと移動して、視線を合わせたところで静止する。
そのまま幾度か緩慢な瞬きを繰り返したあとで、やっと彼女は人としての意識を取り戻した。
「ん…、んー…」
おはよ、と唸り声の合間に辛うじて聞き取れた。
それでとりあえず二度寝することはないと判断して、キッチンへ向かう。
彼女のためにホットミルクを作って戻ると、ソファに座り直してくあ、と欠伸をしていた。
差し出したカップを受け取りながら、緩んだ目元を更に和ませる。
「ありがと」
声もはっきりしていた。
何時間眠っていたのか正確には分からないけれど、
今回の“所用”はまだ負担が軽かったのだろう。
それとも、帰って来る前にある程度の疲れは取ってきたのかもしれない。
彼女は「外」の臭いをこの河川敷に持ち込むことは避けたがっているから。
理由は、聞いたことがない。それでも大体の予想はつく。――だいたい、なら。
(彼女自身のためなのか、あの男に気兼ねしてか、それとも私を気遣ってか)
そんなものは無用だと、斬り捨てるつもりはないけれど。
私が――多分あの男も――それに気づいていると彼女も知っているだろうし。
「ちょっとね、××辺りに行ってた」
「…そう」
そこが紛争地帯だということは言われなくても分かっている。
なぜ彼女がそんなところに出向くのかは彼女の、もしくは彼女の組織の理由であるし、
私に報告する義務もない。
こんな風にわざわざ地名まで挙げるのは、含みを持たせているから。
決して浅くはないところにいた私が、
今こうしてのうのうと一般人のような生活を送れているのは彼女の暗躍があったから。
同じく、償いきれない失態を侵した彼が平和に聖職者のまねごとをしていられるのも、
彼女が裏で手を尽くしたから。
いつもはそんなこと、忘れたような振る舞いをしているのだけれど――
言葉の裏の意味は、分かってしまう。
過去に置いてきた“彼ら”はまだ動いていたのね。
感傷なんて、生温い感情はもう持ってないけれど。
錯覚かもしれない懐かしさを覚える程度には、私も手ぬるくなったらしい。
「もう少し、眠ったら?」
「ん…?」
少し考え込んだ末に、「そうだね」とあっさり同意した。
戦場帰りだというのに、どうしてそこまで無警戒でいられるのだろうと思ったことは何度かある。
スイッチの切り替えが手早く行えるのは一種の才能かしら。
ソファに突っ伏そうとする彼女をベッドに追い立てて、布団を被せた上で笑いかけた。
「おやすみ、」
「ん、おやすみ、マリア」
過去と向き合っても笑えるくらい、痛みを忘れたのね、私は。
10/11/05
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ふるるか