08/08/10
渡すことの出来ない想いも心も宝物だと言ってしまおう
08/09/01
最後の最期に全てをあげる
――渡すことの出来ない想いも心も宝物だと言ってしまおう――
「せめてもーちょっと誠実ならねー…」
ウィスタリアパープルの前髪を撫で、熟睡中の男の寝顔に小さくため息を吐いては呟いた。
くるくると指に絡めては解いてを繰り返しても、寝息を立てたままで起きる気配はない。
小一時間ほど前に訪ねてきて――もちろん玄関からではなく、唐突にリビングに現れて――、
少し仮眠を取らせてくれと疲れたハスキー調の声で告げたあと、
あちこち引っ張りだこらしいロッキンロビンはのベッドを占領して眠っている。
自分の家に帰ったらどうかと言ったときのやり取りを思い出して、はもう一度嘆息した。
憂鬱な主人を心配して、の肩に止まった使い魔――シディアという名の鴉――
が漆黒の羽を彼女の頬にすり寄せる。シディアの嘴をそっと撫でては微苦笑した。
「クイーン候補のお目付役なら、仕事減らせば良いと思わない?」
家じゃ静かに眠れないからって、と続ける主人を、シディアは黒の瞳で見遣る。
長年の主従関係の賜物か、それだけで使い魔の言いたいことがわかったは少し沈黙した。
目を閉じ、自分を隅々までコントロールしようとするかのように細く長く息を吐き出す。
薄く開かれた目はロビンでも使い魔でもなくパステルブルーのシーツを見つめ、
「そうだね」とほとんど囁き声で答えた唇には自嘲気味な微笑が浮かんだ。
そのまま部屋は静寂に包まれたが、
十数秒後にはぎしりと僅かにベッドを軋ませてが腰を上げる。
音を立てないように寝室を出る頃には、彼女の思考はすでに仕事に切り替わっていた。
(
けれど、それを望まれているのでしょう?)
――最後の最期に全てをあげる――
「…ロビン」
もう冷たくなった彼に呼びかける。返事なんて期待せずに、ただ彼に向かって言葉を紡ぐ。
「ロビンらしいよね」
何だかんだ言いつつも、常に気を配っていた貴方らしい死に方だったよ。
――自嘲気味に呟いたその事実に、性懲りもなく泣きそうになった。
泣かないための決意だと、自分に言い聞かせて涙を飲み込む。
ひくりと痙攣した喉を落ち着かせて、届かないというのに平静を装った声を出した。
「『忘れないで』なんてさ、言わないから」
忘れてくれて、良いんだよ。
全部ぜんぶ、貴方にあげるけど、そんなこと知らなくて良いから。
だから、一つだけ、お願い。
「――生きて、ね」
見下ろした胸に光る真紅のハート。
取り出して右手に浮かべると、歓喜にか恐怖にか、ちりちりと光が揺れた。
本当は禁術なんだけどね、と呟くことに意味はない。
術式も魔力も、全て結晶の中に封じ込めた。だからあとは、私が一切を放棄して譲渡するだけ。
そっと、彼の胸の上にハートを移動させる。手を退けても輝きは変わらなかった。
ふ、と息を吐いて、ロビンに顔を寄せる。
鼻先が触れ合うほどの距離でも、彼が目を開けるなんてことはなく。
そのプルネラの瞳を、私が二度と見られなくなるとしても構わないと、そう思った。
「愛してるよ、ロビン」
そっと触れた冷たい唇の感触を最後に、全ての感覚が遮断された。
天井近くの窓、そこに一羽の鴉が佇んでいる。
左足につけられていたリングは、彼の主がかき消えると同時に消失した。
軽くなった片足を名残惜しげに見遣り、鴉は再び部屋の中央で眠る男に漆黒の瞳を向ける。
主の最後の望みを、せめて見届けることはしようと男の目覚めを待つ鴉が、
一滴の涙を零したことは誰も知らない。
(
これでいいのと彼女はいった)