「お妙さァァァん!!結婚してくれェェ!!」
「いい加減にしろこのゴリラァァ!!」
叫び声と怒鳴り声、距離は五メートル。
一歩踏み出し柄に手を掛け、二歩目で地面を蹴り、
三、四、五歩で間合いを詰めて抜き身を放てば首が落ちる。試してみるのも悪くはない。
そう考えて紫煙を吐き出した。髪を結った女人と黒の隊服を着た男と眼鏡の少年が数秒霞み、
またもとの色彩を取り戻す。煙を取り払った冷風に、もうすぐ冬だなと独り言ちた。
冬になれば彼も少しは外出を控えるだろうか。馬鹿げた疑問を持って、すぐにそれはないと否定した。
また風が吹き、前髪が揺れる。ちらちらと視界を遮るそれの向こうに女人が男を殴り飛ばしたのが
見えた。明日になったら痛々しい痣になるだろう。彼があのぞんざいな扱いに甘んじている理由が
いまいちわからない。…いや、分かってはいるが理解はできない。恋は盲目と言ったのは誰だったか、
…あぁそうだ。「ヴェニスの商人」のジェシカか。
続けざまに拳を打ち込まれる様子に短く嘆息して、体重をかけていた壁から背中を離し歩き出した。
「おおおお妙さん落ちつッ――」
「んだとこのゴリラァ!?」
「局長」
声を掛けると、三人が一斉にこっちを向いた。少年は驚いたように、女人は不審そうに、
男は「助かった」とでも言わんばかりに。仮にも真選組の局長が、情けないと思う。だからこそ
土方以下、隊士たちがしっかりするのだろうけれど。
「見回りは?」
「あぁ、もちろんこれからお妙さんとっ――」
彼の外出理由であった町内見回りの進行具合を尋ねると、「まだです」と自白しているような返答で
おまけにまた殴られた。吹っ飛んで壁にぶち当たった彼を無感動に眺めて、ひょっとしてこの人は
学習能力というものがないのだろうかと少し心配になる。当たって砕けろもここまでくると再起不能に
なるんじゃないか。
携帯灰皿に吸い殻を落として新しい煙草を銜えると、起き上がった局長が「身体に悪いぞ」と言って
きた。その言葉をそっくりそのまま返してやる、馬鹿ゴリラ。
「なっ!?お前今ゴリラって言ったか!?ゴリラって言ったのか!!?」
「知らん、どうでもいい。
とりあえず土方が待ちくたびれてるからとっとと屯所帰れ。見回りはやっとくから」
切り捨てるとしょぼくれた顔をした。あァ、こんな些細なことでも傷ついてしまう人だというのに。
神様はいつだって平等だ。誰に対しても見守ることしかしない。ならばいっそのこと、生まれ持つもの
も平等にしてくれないだろうか。
肺の奥まで紫煙で満たし、吐き出すときいつものように少しの間だけ願った。
――どうかこの人が幸せになれますように。
たとえ、そのとき私はもう彼の傍にいないのだとしても、どうか。
それまでは、この悲しいほどに真っ直ぐな人に最善を、捧げます。
「…局長」
視界の隅に女人が見える。彼女ならば局長を幸せにすることができるだろう、きっと。けれど、それが
最善であるという保証はない。言ってしまうならば、最善にはならないだろう。そして彼女が局長を
幸せにしてくれることも、きっと。局長は彼女の幸いでも最善でもないのだから。
私が願うのは彼の幸い。けれど私が望むのは、最善。だから、汚れ役も引き受けよう。
「覚えといて。絶対的な忠誠心と、盲目的な愛情ほど扱いにくいものはない」
「…?」
「その二つほど、怖いものもまた然り。…私なら。私なら、全てを最善に尽くすことができる」
それが最善になるのなら、その人を殺すことだって厭わない。
「それが私。」
それでも貴方は気づかない。
強張った顔から視線を外して歩き出す。後ろで「!」ともう一度名前を呼ばれた気がしたけれど、
応えることはしなかった。
“真選組”に対するものなのか、“近藤勲”に対するものなのかは、教えてあげないよ。
07/10/13
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