「」
呼ばれて振り向いて、差し出された腕に整理中のデータのことなんて頭から吹っ飛んだ。
ぱたぱたと駆け寄って胸に飛び込む。足を掬われてふわりと上に乗せられる。
ぺたりと肩口に頬をつけて、包み込む体温に息を吐いた。
猫のようにゴロゴロと喉を鳴らしたいほどの幸福感。
きっと今、ひどくだらしのない顔をしている。
それでも彼が珍しく愛おしむように名前を呼ぶものだから、
躊躇いなんて欠片もなく従順に顔を上げた。
柔らかに触れる唇。目を閉じて、身を預ける。
「…ん、ふ」
後頭部に手が添えられたと思うと、ぬるりと舌が入ってくる。
奪う風ではない、温もりを分け合うような緩やかな動きに却って戸惑う。
視界が閉ざされているから余計に、腰を抱いた手の、指先の動きに過敏になって、
絡められる舌の間から変な響きの声が洩れた。
縋った手が服に皺を寄せて、対応に困った身体が少し浮いて、
けれど逃れることは出来ずにされるがままになる。
口内を愛撫する舌の動きに翻弄されて上手く息が継げず、
じわりと少し閉じた瞼の下で涙が滲んだところで唇が離された。
「ふぁ、は…っ」
すぅ、と冷えた空気が入り込んで熱を静める。
脳に酸素を回すのに一呼吸して、こくりと口内の唾液を飲み下し、何度か瞬いて涙を払う。
微かに零れた目尻の水滴に、妖一がそっと口づけた。
もう一度、触れるだけのキスを交わして抱き寄せられる。
頭の上に顎を乗せられて、動こうにも動けない。
少し考えて首筋に唇を押し当てると、ごつんと顎の骨が頭蓋骨にぶつかった。
視線を上げて、見下ろす瞳と暫く見合って、結局大人しく抱かれることにする。
細い腰に腕を回して擦り寄った。
「好き」
「ああ」
短い答えと一緒に軽く頭を撫でられて、心地良い温度に満足した。
騙されているのだと叫ばれようと、悪魔の手先だと忌避されようと、
妖一の愛を受けられるなら何だって良い。
愛でなくとも――ただの都合のいい女でも、利用価値があるだけでも、
傍に置いてくれれば幸せ。
「好き、妖一」
「……」
時々こんな風に抱きしめて、キスしてくれれば一生貴方の奴隷で良い。
抱く腕に籠もった温情がいつか消えても、きっと知らない振りで笑ってみせる。
彼女の幸福
10/03/16
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ふるるか