静寂が二人を包む。早朝五時、白み始めた東の空を眺めながら冷え切ったラテを啜った。
ちらりと横目で蛭魔を見遣ると、中身が全く減っていないブラックコーヒーを前に眉間に皺を寄せたまま さっきから目を瞑っている。カーテンが薄く開いた窓に視線を戻すと、凍えそうな程の薄青が広がって いた。アイスブルーは日本語に訳すとどうなるのだろうかと馬鹿げたことを考える。今考えるべきは 別のことだというのに。


「飲まないの?」
「……」


問い掛けて、開かれた瞳が訴えてくることに少しうんざりした。肯定も否定もせず、その目はただ私に 答えを迫る。視線を逸らしてもう一口手に持ったカップから啜った。そんなに早急な事柄だろうか。 ぼんやりそのまま考える。(考える必要もないことを)
私から彼に関わることはないのだから、クリスマスボウルが終わるまで放っておけばいいのに。それとも 放置できるほど信用されてないのだろうか。まさか始末をつけておかなければ他のことに集中できない というほど私が彼の頭を占めているというわけではあるまいし。


「…姉崎さん、か」
「――」


ぴく、と似つかわしくなく指が跳ねた。いや、それともそれすらも演技なのだろうか。
蛭魔が私に向けていた感情が、“愛情”なんて生暖かいものではないことは当初から分かっていた。ただ の都合のいい女。それだけ。彼が愛だの恋だの甘ったるいものを宿すなんてありえないと思っていたし、 私もそんなものを求めてはいなかった。(それとも本当はそれが欲しかったのだろうか)


「あの人のこと、好き?」
「………」


目を合わせて問い掛ける。視線はそらされた。
もしも蛭魔が彼女を好きだと言うのなら、喜ばしいことだと思う。所詮人は独りでは生きていけない というのが私の持論だと、いつか彼に言ったことがあっただろうか。少なくとも――、私ができなかった ことが彼女にできるのならば、私が蛭魔に固執するのは間違いだと思う。どんな理由を並べ立てたところ で、それはエゴにしかならない。だから――。


「蛭魔」


コト、とテーブルにカップを置く。相変わらずコーヒーは減ってない。彼は無言のまま私に視線だけを 向けた。


「わざわざ話しに来てくれて嬉しかったよ」


この関係が行き着く先は消滅しかないだろうと、それはずっと前から悟っていたこと。そして蛭魔は、 前兆も後遺症もなく私の傍を離れるのだろう、そう、(傷つかないための)覚悟はできていた。
きっと前の蛭魔なら何も言わずに行った。だけど、彼はここへ来た。変わったのか、それとも 変えられたのか。それが誰の所為なのか、それとも御陰なのか。


「古いものに固執しないのはいいことだと思う。躊躇わずに切り捨てられるとこ、好きだった」
「……


名前を呼ばれて。少しだけ、心が震えた。躊躇う。戸惑う。迷う。揺れる。
けれど、決して、立ち止まってはいけない。振り返って感傷に浸るなんて、もっとずっと後でいい。


「もう、大丈夫だよね」
「…ああ」
「…じゃあ。さよなら」




随分と呆気なかった。思ったよりも冷静だった。
蛭魔は黙って席を立って(結局コーヒーには手をつけないまま)、部屋を出て行くときに、振り向いて。


「…俺、お前のこと、結構気に入ってた」


何、その少女漫画みたいな科白。
そう言うと、「素直に喜べ」と少し笑った。










最後にもう一度だけ







「……」


静寂の中で一人ぼんやりとしていた。何気なく、残されたコーヒーカップに手を伸ばして彼が好きだった 琥珀色の液体を一口含んでみる。舌の上で苦味が広がって、飲み下したあと自然に「苦い」と呟いた。 そういえば、蛭魔のキスはときどきコーヒーの味がしたな、とそう思って立ち上がる。彼の残した コーヒーを飲んで彼のくれたキスを思い出すなんて、未練がましい(私はそう思う)ことをこれ以上 続けたくはなかった。
キッチンに向かい、シンクにコーヒーを流した。排水溝へ吸い込まれていった茶色の液体の跡を、水道の 蛇口を捻って水で消す。右手に持った、この家で彼が愛用していたカップをどうするか少し考えて、割る ことにした。取っ手を離すと重力に従ってカップは落ちて、高い音を一瞬響かせて砕けた。飛散した 欠片を見て、綺麗だな、と思う。


「…“気に入ってた”、か」


それは果たしてどの程度の執着だったのだろうか。考えかけて止める。
怪我をしないようにカップの残骸を拾い集めながら、これで最後だと思いながら呟いた。


「私は蛭魔のこと、好きだったよ」





08/02/19
(BGM:ララバイカウントダウン