雨の音は好きじゃない。幼少期を過ごした、あの鬱屈した街を思い出すから。
一年中塞ぎ込んでいた、血と硝煙と腐敗の臭いに包まれた旧市街。 濃密な死の気配に囚われないように、けれど心のどこかで惹かれながら、あたしは必死に生きていた。
――そういえば。そういえば、の子供の頃の話は聞いたことがないな、と、 振り返って見た背中は物思いに耽っているのか、世界から自分を切り離していた。



「……?」
「ん?」



空を見上げていた目は呼びかけた瞬間にあたしに向いて、いつものことながら、 の聴覚は運動神経と直結してるんじゃないかと思う。
「どーした?」と言いながら一歩二歩とは近づいてきて、紺青の瞳に覗き込まれる。 フォルテの目は空の色だな、と細められた海色の目は、嵐の前のようにどんよりと暗かった。
沈黙するあたしを前に、は小首を傾げて少し笑う。なにもかもを許すようなその笑みに、 あたしはどれほど救われているのだろう。
干渉しない、沈黙する、けれど許容する。それがあたしに示された彼のスタイルで、 だから今もに昔の話はしていない。――そして、彼のことも多くは知らない。



「…雨、嫌い?」
「…え?」



いつの間にかぼんやりと視線を彷徨わせていて、投げかけられた問いにの顔に焦点を戻すと、 彼は雨が降りしきる外を眺めていた。
透明なガラスの表面についた雨粒が、徐々に速度を上げて伝い落ちる。太陽が見えないとはいえ 昼過ぎの外は明るく、薄暗い室内に歪んだ水滴の影を落としていた。



「…好きじゃ…ない、ね」
「そっか」



呟くように返答したが、あたしの額に唇を落とした。 それが慰めているようで宥めているようで、肩口に頬をすり寄せると緩く抱かれる。
不意に、あの頃とは違うんだと実感した。
もうあたしは薄暗い路地裏で息を殺していた女の子じゃなくて、 機関銃を抱えて戦場を這いずり回っていた少女でもなくて、 男の人の腕に抱かれて安心している女なのだと。
ふと、哀しくなる。
今のあたしはあの頃持っていなかったもの――生きる術、世界を見る視点、安心できる場所、 信頼できる人たち――を手に入れて、その代わりに何か――生への渇望、盲目的な信念、 こだわれる強さ――を失ったのだと、に抱かれながら自覚する。
過去に執着しているわけじゃない。ただ、遠い距離で隔てられてしまったことに、 少し感傷的な気分になっているだけ。今のあたしは、幸せだと言い切れるのだから。



「…
「ん」



くい、と服を引っ張って、肩口から頬を離す。 視線を絡ませただけでどうして欲しいのかわかったのか、目を細めたの顔が下りてきた。
目を閉じて彼の唇を受け止めて、ねだるように背中に腕を回す。 少しだけ、忘れさせて欲しいと縋るような気持ちがあって、 それに感づいたのかそれともその気はなかったのか、あっさりとは身を離した。
見上げた顔に不満げな色が表れていたのか、微苦笑を浮かべてもう一度軽いキスをする。 それだけでもう、あたしを満たすには充分だった。
指の背で頬を撫で、口端に微笑を湛えてが言う。



「帰ろっか」
「…そうだね」
「コーヒー飲む?」
「あぁ」



おいで、と差し出された手を取って、あたしはに身を寄せた。






雨空を見上げる背中は遠い
けれど、はここにいる。あたしもここにいる。





08/07/24